「そうですか」

甚兵衛は素直であったが、厚化粧の崩れているマリ子の青白い顔には、巌さんへの

反発がありありと現われた。

日蓮正宗の御本尊を、文字の書いてある紙切れにすぎないと、それを拝んでいる者

を軽蔑しているマリ子にとっては、焼物の狐や、稲荷大明神の掛軸が影響して、家の

内を滅茶滅茶にするというのが納得できないのだ。

「環境は、人を支配する」

巌さんがマリ子の顔へ視線を向けて話しはじめると、政雄は坐り直して両手を膝へ

置いた。

「朝、小鳥の囀りで眼を覚ます。起き出して障子を開けると、庭の植込みに朝日が射

しており、鬱蒼と繁っている庭木へ小鳥の群がきている。綺麗な洗面所で顔を洗い

口をすすぎ、広い庭を前にして、廊下に置いてあるソファヘ腰を下ろし、家の者が運

んできた茶をテーブルから取って静かに呑み、それからゆったりと煙草を一服つける

……そういう人と、この長屋を悪くいうのではないが、子供の泣き声と、それを口穢

く叱る親の声で眼が覚める。顔を洗いに勝手へ行くと、御飯の焦げ付く匂いがして、

それをいうと女房がふくれ面できて、少しは早く起きて、子供の面倒ぐらいみてくれ

と文句をいわれ、雑巾のような手拭で顔を拭いていると、隣から夫婦喧嘩の声が聞こ

え、なにか投げて物の壊れる音がする……というような人の気持とは、同じではある

まい。これは一つの例だが、事実、暴風雨の中を一人で歩いている時の、その人の生

命の状態と、秋晴れの野原を草を摘みながら散策している人の生命の状態とは違うは

ずだ」

「社長、一つ間違えば、血を見るような喧嘩の起こる不良仲間の中にいた頃と、この

頃とを比べてみると、ぼくにはよく分かります」

福島政雄が眼を輝かしてそういうと、マリ子は睫毛を上げてちらりと見た。

「この稲荷のことをいう前に、甚兵衛さんにも、マリ子さんにも、一つ、真剣に聞い

てもらいたい。それは……」

巌さんが話しつづけようとすると、さっきから首を垂れて、狐のように釣り上がっ

ている眼をうろうろさせていた母親が、気味の悪い呻声を立てて顔を上げた。

「帰れ!化物!」

母親は巌さんを睨んで叫んだが、巌さんの氷のように光っている視線に逢うと、ま

た、首を垂れてしまった。

「誰でもそうだが、一日のうち、同じ生命の状態でいると思いますか。夢も見ないで

熟睡して、自然に眼が覚めた時は、大変に気持がよい。その時の生命の状態を、仏教

では天界というのです。気持がよいとも思わないが、悪いとも思わない。そんな静か

な状態を人界というのです。出勤しようと思って、電車へ乗る。押される、小突かれ

る。靴を踏まれる。そうすると腹が立ってきて、人を押したり突いたり怒鳴りたくな

ったりする。その状態を、修羅界というのです。出勤して働いていると、そのうちに

腹が空いてくる。なにか食べたくなって、御馳走が眼に見えてくる。御馳走を食べる

金が欲しくなり、ついでに着物も欲しくなる。その生命の状態を餓飢界といい、重役

が恐いとか、重役に媚びるとかいう生命の状態は畜生界といいます。また、心配ごと

があって、心が苦しむ。今、あなたが、お母さんをはらはらして見ている心……その

生命の状態を地獄界というのです。天、人、修羅、畜生、餓飢、地獄この六つの生命

しか、あなたの生活にはない。それを六道輸廻といいます。そのほかに四聖といって、

声聞、縁覚、菩薩、仏……という境涯の生命があるのですが、これは、今説明しても

無理でしょう。ただ人間には、この十色の生命しかないというのは確実です。これが

人間だけと思うところに偏見が生ずるのだ。この大宇宙は、われわれの生命と同じ生

命なのです。この地球上の存在そのものが、皆、この生命と同じなのです。そうなる

と、この部屋も、みな、十色の生命に分けて見ることが出来ます。今、ここに飾って

ある……この孤、この紙には、畜生の命が籠っている。この畜生の生命と、お母さん

に具っている畜生界の生命とが感応して、お母さんが孤と同じような行動をするので

すよ」

巌さんが噛んで含めるようにいうと、甚兵衛は身震いして祭壇を眺めたが、巌さん

を凝視しているマリ子の顔は無表憤で石のように冷たい。政雄だけが、初めて聞く仏

教の十界論の話に感動して胸を揺さぶられている。

「これを取払うことです!」

巌さんの声が強く響いた。

「そして、真実の御本尊を祀りなさい!そうすれぱ、お母さんの仏の生命と、真実

の仏の生命とが感応して、孤の畜生界の生命は冥伏してしまう。冥伏とは、陰へ伏し

潜むことです」

甚兵衛はおどおどして、娘のマリ子を見た。

巌さんをじっと見詰めているマリ子の顔の表情に、徴かな動きが見えだした。

「社長さん、これを取払ったら治りますか」

甚兵衛が祭壇を指さしていうと、巌さんは確信に満ちた声で、言下に答えた。

「治る!」


(戸田城聖著「小説・人間革命」(下)より)


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