民主主義と仏法
果たして、日本に本当の民主主義はあるのだろうか。
金融破綻等で見せた、強者を守り、弱者を切り捨てる、あの政府の対応。
国民への奉仕を忘れた官僚たちの、「官尊民卑」の弊風。
選挙の時ばかり、国民が主権者だと言いながら、その実は「国民の利益」ではなく、「私利私欲」を貪る、卑しい政治家たちの二枚舌。
権力と結託し、捏造した報道で、人権をも踏みにじる、厚顔無恥な一部マスコミ。
しかも、世論調査では、約七割の人が、「日本は悪い方向に向かっている」と感じているにもかかわらず、社会には、何を言っても変わらない、仕方ないという無力感が漂っている。
御書に仰せの「当世は世みだれて民の力よわし」(一五九五ページ)とは、現代の世相そのものであろう。
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戸田先生は、戦後、いち早く、経営されていた「日本正学館」から、『民主主義大講座』第一巻を発刊された。一九四六年(昭和二十一年)のことである。
当時は、誰もが、口を開けば「民主主義」を吹聴し、希望を託していた時代であった。しかし、「民主」の確たる理念もなく、言葉だけがひとり歩きしていたのである。
先生は、民主主義も、国民が賢明にならなければ、「衆愚」となり、人権無視の転倒した社会になることを見抜かれていた。
かのプラトンは、その名著『国家』のなかで、哲人王の政治をはじめ、五つの国制を論じたが、民主主義は下から二番目という低い評価を下している。
その理由は、人間の内面の陶冶を欠いてしまえば、民主主義は自由を謳いながらも、かえって、民衆を欲望の奴隷にしてしまうからである。
戸田先生も、それを憂慮され、民主主義の内実を、いかにしてつくり上げ、永遠ならしめていくかに心を砕かれ、出版に踏み切られたのである。
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"大講座"の第1巻は、民主主義の原理、および歴史の考察であった。
そのなかで、「アメリカの民主主義」と題して筆をとった、ある大学教授が、「真実の民主主義は宗教的信念に基礎づけられている」と述べていた。
鋭い洞察である。
人間一人ひとりを、磨き、高め、尊厳ならしめ、その自立した人間同士を結びつける哲学があってこそ、本当の民主主義の実現は可能となる。
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戸田先生は、よく「日蓮大聖人の仏法は、最高の民主主義である」と語っておられた。
大聖人は「王は民を親とし」(御書一五五四ページ)、権力者は「万民の手足(しゅそく)」(同一七一ページ)と、"民衆"を根本とせよ、と強調されている。
また、民衆に、なかんずく一個の人間に、尊厳なる仏を見ていくのが仏法の精神である。
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実は、この"大講座"第1巻が出版された翌月、その教授は戸田先生の依頼で、本山の教師講習会で講演をしている。
先生は、宗門が時代に取り残されぬようにと、心を配られたのであった。
思えば日淳上人も、戦後間もないころ、「民主主義と宗教」を論じ、「尊厳なるべき個々人を侮辱し迷妄ならしむる」宗教を、「民主主義の敵」として、厳しく糾弾されていた。
だが、宗門のほとんどの坊主たちは、それを学ぶどころか、逆に踏みにじったのである。
広布のため、人びとの幸福のために戦う民衆を侮蔑し、"僧侶が上、信徒は下"といって恥じぬ日顕宗は、もはや「民主主義の敵」以外の何者でもない。
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学会は、貧困や病に苦しみ、社会の谷間で、言い知れぬ苦悩をかかえて生きる民衆に、仏法の「幸福の哲学」を流布し、希望と勇気の光を送り続けてきた。
そして、信仰によって、自己の使命に目覚めた友は、時代建設の主体者として、社会貢献の歩みを開始していった。
「民主」の時代とは、民衆が強く、聡明になり、社会の主役となることである。
名ばかりの「民主」の時代にあって、真実の草の根の民主主義を、わが創価学会はつくってきたのである。
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それゆえに、民衆を支配せんとする勢力は、躍起になって、学会を中傷し、謀略を企ててきた。しかし、それは、「日本の柱」を倒す行為といえまいか。
近年、再び、随所に「国家のための国民」をつくろうとする、国家主義の台頭の兆候が見られる。
ナチスの独裁も、民主的なワイマール憲法のもとで台頭した。人間の哲学という土台なき民主主義は脆い。
だからこそ、学会は、断じて勝たねばならない。
(聖教新聞 1998年6月17日付「随筆 新・人間革命」より)